自分自身の
本当の姿を思い出す旅へ
ひとりごと

罪悪感病と自己否定病

突然ですが、私はこの時代のこの国に日本人として生まれたことに感謝し同時にとても誇りに思っています。

だからこそ思うことがあるんです。

わたしたち日本人のもはや国民病のような罪悪感病と自己否定病、もうそろそろなんとかした方がよくない?って。

罪悪感を辞書でひくと「悪いこと,非難されるべきことをおかしたという気持ち」とあります。

同義語とされる うしろめたさ や 負い目 という言葉の方がわかりやすい方もいるかもしれません。

自分を大っぴらに肯定することを美徳としない文化的背景がさらにそれを助長しているのではないかと私個人的には考えているのですが、それにしてもちょっと病的ではないかとすら思っているんです。

謝るようなことなんかひとつもないときですら、いとも簡単に「すみません」を口にしたり、エレベータのボタンを押してくれたような小さな親切を受けたときにすら「すみません」て言っていますよね。

そういえばすこしまえ、外国出身の知人と話していて、なんの流れか、この日本人の集団意識的罪悪感についての話題になりました。

「これはさ、もう、National Issue(国の問題)といっていいと思うんだ」と言うと、彼女は最初私が冗談を言ったと思ったらしく空を仰いで笑いました。

が、その後すぐ真顔に戻って「そうね、確かに」と呟きました。

「私はそれを日本人らしさだと聞かされて日本へきたけど、やっぱりそういう場面に直面するとなんだか心苦しく思うわ」と。

自分をへりくだって表現するということを、私たちはもう長いこと習慣的に続けてきました。

  • 褒められると、もう脊髄反射的ともいえるほど速度で「いえいえそんな!」と拒否する謙遜の習慣
  • 「私なんてまだまだですから」と「できること」より「できないこと」を数えてする反省の習慣
  • 「自分にはその価値もない」と人より前に出たり目立つことを恐れる自分隠しの習慣

他にもまだまだあるような気がしますが、日本人の罪悪感に関しては、民族的なものだったり、出生に関わりがあったり、敗戦国であることが関係している説など、いろいろなところでいろいろな説明がなされています。

ひとりひとりにどんなバックグラウンドがあるにせよ、私にいえることは、もうそれ、いらないですよね? ということです。

誤解しないでいただきたいのは、なにもここで日本の文化の是非を問おうっていうのではないんです。

私自身、細部に美を見る繊細な日本人の心には、他の民族にはない特別なものがあると思っていますし誇りにも思います。

しかしそれを私たち個人の自由な行動を制限するレベルで足かせとしてしまっているのなら、もうそろそろ考えてみませんか、と言いたいのです。

自分が自己否定の呪縛にとらわれていることに気づくチャンスを得たら、もうそれだけで一歩先に進むことができます。

気づけばあとはサヨナラするだけ・・・なのですが、多くの人が自分の中の自己否定感に気づきながらも完全には捨てることができないでいます。

なぜならほとんどの場合、人格やアイデンティティ形成に罪悪感込みで自分を定義しているからです。

長い間自分の一部だと思っていたものを、いやもうアナタそれなんの役にも立っていませんから、と突然言われたところで「はいそうですか」と捨て去ることはなかなか難しいのかもしれません。

頭では理解できていても、自分の匂いの染み付いた柔らかなタオルは、かのライナスのように手放しがたいのです。

さあ、そこであなたならどうしますか、というお話なんですが。

文化的、民族的レベルで刷り込まれてしまっているんだから仕方ないでしょ、と言うこともできますね。

そもそもそれが日本人でしょそういうものでしょ、そういう教育をたっぷり受けてきたんだし、そんなの私のせいじゃないわよ、と。

そう言われてしまったら「あなたのタイミングがくるまでお気のすむまで存分にどうぞ」と言うしかなくなってしまうんですが、そういう背景があってなおそこから抜け出すと決めたのであれば、ひとつ提案をさせてください。

人の顔色をみて周囲にあわせていたことをゆるっとやめて、徹底的に自分を甘やかすことを始めてみる、というのはどうでしょう。

つまり。

自分がしたいことをして、言いたいことを言う。

重い自己否定の呪縛を背負った人ほど、自分をありのままに表現することをもっとも苦手とします。

自分を表現することをしてこなかった人は、最初はきっと振り絞るほどの勇気が必要だと思います。

自分をあるがままに表現することと他人を傷つけることを同一視していると、こんどはまた別の恐れが湧き上がってくるかもしれません。

それでも行動していくうちに、やがてその違いははっきりとわかるようになります。

そして相手を思いやりながら自分自身を表現することは可能だということも。

だからこそ自分を主体に動くということを、もうこれは訓練だと思って始めてみてはいかがでしょう。

それを繰り返すことでほんとうに自分の欲しかったこと、求めているものがかならず見えてくるはずです。

自分の中にあってずっと一緒にいたけど未使用のままおいていた、自分本来のパワーに目を覚まそうではありませんか。

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