自分自身の
本当の姿を思い出す旅へ
ひとりごと

食べるという行為

セラピストなのだし日々の食事はきちんと管理されているのでしょう?とよく聞かれるのですが、不調を感じたとき、なにか目的を持って薬膳を取り入れたいというとき以外は、自分の好きなものを好きなタイミングで好きなだけいただく、というのが基本です。

そんな私が常々考えていること。

それは「何を食べるかということと同じかそれ以上にたいせつなのは、どう食べるかってことではなかろうか」ということです。

確かにルーツや出所がはっきりした食材を選んで食すということは、食の安心や安全を語る上では重要なことだと思います。

事実自分で食べるためだけにソントク勘定抜きで作った自家栽培の野菜やおコメは、ほんとに美味しいです。

でもね、いくら愛情たっぷりの自家製の野菜や、有機栽培で農薬を使わず手間暇かけて作られた農作物、一流と呼ばれる品質の確かな高価な食材を集めても、それらを別のことを考えながら上の空で食べていたり、イライラしながら、愚痴や文句を言いながら食べているのなら台無しなんじゃないかな、と。

実はそう考えるきっかけは、あるとき食事中に友人がポロリと口にしたこんな言葉でした。

「コンビニで売ってる食品はエネルギーが低いから絶対食べない」という人がいるけど、そんなことは本人次第だと思うの。
たとえば、その商品が棚に並ぶまでには様々な人が関わっているわけでしょ。畑で野菜を作った人、お魚を取った人、調理した人、加工した人、運搬した人、棚に並べた人・・・そうした人たちひとりひとりの手によってその商品が作り上げられていることに感謝しながらいただけば、私は決してエネルギーが低いものをいただくという気持ちにはならないんだけどな・・・

その言葉に感じるところのあった私は、以来、ひとりで食事するときラジオやテレビをつけたままにするのはやめました。

代わりに目の前の今自分が食べているものに全意識を向けて、ただそれを食すということに集中してみたんです。

口に運ぶひとくちひとくちに意識を向けて丁寧に、そう、咀嚼する野菜の繊維一本一本の歯ざわりまで感じるくらい丁寧に食事をしてみると、いかにこれまで自分が「食べる」という行為をただ無意識にしていかが実によくわかりました。

そして同時に、そのように食事をすることで、これまで得ることのできなかった様々な感覚が磨かれることにも驚きました。感じることができるのは単なる味覚や嗅覚、触覚などの五感をはるかに超越した、まったく別の次元のエネルギーです。

しかしひとにとって食事をとるということは、単なる生命維持のための行為というだけではなく、コミュニケーションの手段だったり、仲間同士の絆を確認しあうことのできる場であったり、エンターテインメントでもあります。

食事のたびに瞑想していてはそれらの機会を逃してしまいますが、たとえばひとりで食事をするようなとき、意識を目の前の一皿に集中させていただく、ということを、やってみたことのない方にはぜひおすすめしたいな、と思います。

これまで見えていなかったとてつもないものに、かならず気づくはずです。

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