今日は突然思いついて、自分の話をします。
誰かの得になるどころか、むしろ自分語りなんかしちゃって、過去を晒しちゃって恥をかくのは私なんですが、私の中のなにかが「いっとけ、いっとけ!」とニヤニヤしながら騒ぐので、このまま進むことにします。
そしてそういうときは、やっぱりお話ししてよかったな、と思うことがちゃんとのちのち起きるってことも経験上知っておりますので、ハラをくくりまして。
では。 あ、おそらくいつも以上に長くなりますのでご覚悟くださいませ。
私がこの道に進んで来たのは、バイクで大怪我して死に損なったから。そして怪我で変わってしまった自分の身体をどうにかしたくてボディケアセラピストになった、というお話はここでもなんどもしている通りですが、これからお話しするのはそれ以前の私の話です。
いつもカリカリイライラしていて、喧嘩っ早くて、同僚や取引会社のスタッフにまで正論に名を借りた心のない言葉を浴びせて、まわりがどんなに忙しくてもランチはいつでもきっちり1時間休んで、自分の仕事さえ終わればちゃっちゃと帰っちゃうような会社員時代の私の話です。
そうなんです、私もすーっかり忘れていましたが、まあそこそこめんどくさいカンジのサラリーマンだったんですね。
当時の私には自分で決めた法則や決まり、フォーマットが山ほどありまして、そのうちのひとつが「自分が好き勝手をやるために、他人に迷惑をかけてはならない」ということでした。
そもそも組織の中で協調性を欠いているという時点でもうすでに大迷惑なんですが、当時はとにかく「やることさえきちっとやってれば文句はないでしょ」という思い込みがあったので、人に指摘される恐れのあることは片っ端から潰して暮らしていました。
特に他人に指摘されることはなにより嫌だったので「間違い」なんかはぜーーーったいにおかすわけにはいかず、常に「正解」を求めていました。
自分の中の「いい」と「悪い」の区別は常にクリスタルクリアー、はっきりと明確になっていました。
仕事のことでなにか聞かれて言い淀んではタイヘンなので(指摘されちゃうから!)、常に資料は2重3重に用意して自分の正当性を証明できるように理論武装して盤石の構えで備えていました。
常に上には上があると意識して、自分なんかまだまだ未熟だ、と自分に言い聞かせることも忘れませんでした。
そしてこの盤石の構えが要求されたのは、なにも会社の中だけではありませんでした。
例えば駅の改札で切符を買うとき、銀行ATMを操作するとき、スターバックスでコーヒーを買うとき、列の後ろの人たちに迷惑をかけることのないように常に細心の注意を払っていました。
あ、新しいメニュー出た!試してみたいけど生ハムしょっぱいのは苦手なんだよね・・・ちょっとそのへん聞いてみたいけど、こんな混んだ店内でそんな会話してたらモッサいやつだと思われちゃう、スマートにさっさと買って次の人を待たせないようにしなくちゃ!
このときはそれが「いいこと」だと思っていたので、常に気を張って緊張をしている意識も、無理をしている自覚もありませんでした。
例えほんとは食べたかったホカホカのフードメニューをショーケースの冷たいサンドイッチで諦めることになったとしても、流れに乗ってテンポよく、誰にも迷惑をかけずにスマートに買い物することの方が重要課題。
むしろそんなときにモタモタしてしまうことの方が、当時の私にとってはストレスでした。
でもね、実は私はだいぶ無理をしてそのスマートをよそおっていました。だってその証拠に、私は他人がモタモタしているのが許せなかったんですもの。
自然体でやっていることなら人のすることなんか気にならないはず。ハラが立つということは、つまり自分が無理して頑張っているんだから他人だってそうすべきだと思っているからです。
私がこんなに頑張って後続の人のために急いであげてるのに、あんただけがのんびり買い物してるんじゃないわよ、キーッ!
聞かれたらモタモタしてないでさっさと答えなさいよ、私なんてそのためにいつも万全に資料を揃えて準備してるのよ、キーッ!
切符の料金くらい並んでる間に調べときなさいよ、私なんてお釣りがないようにきっちり用意して待ってんのよ、キーッ!
てな具合に。
誰も頼んでないのにね、もう、自分で言ってて笑けてくる、そして泣けてきます。
でも何が悲しいっていちばん切ないのは、ここに並べた心の叫びに私自身が気づいていなかったということです。
心の叫びはつまり裏返したら、こんなに頑張ってる私、優等生をやってる私、つらいよー、誰か認めてよー、褒めてよー!えーん!ってことです。
しかしそんなことに気づくはずもなく、なんて能力の低い社員ばかりのつまらない会社なんだ、なんてトロっくさい客ばかりなんだこの店は、と、毎日ハラを立てては過ごしていました(表向きは穏やかな笑顔で)。
だからテンポよく動けない人、その場の流れを察することのできない人、愛想よく振る舞えない人、他人とのコミュニケーションのうまく取れない人が大嫌いでした。
そういうのを一番嫌いだと思っていたのに、やってることが逆方向だったというのが、なんともまあ笑えないんですけど。
しかしもともとそんな風に型にはまるようなタマじゃないので、できないこともたくさんあるんです、というかできないことの方が多いんです、あたりまえです。
そうなるとできない自分を責めて自分に苛立つ、そして私と同じように苦しもうとしないまわりにも苛
立つ、という・・・そんなふうにして、自分にも他人にもぎっちぎちに窮屈な生活をしてたら、ある日あのような大きな事故に遭いました。
もう限界だよ、そっちじゃないよ、いい加減目を覚ましなよ! って軌道修正がかかるようにして。
肉体的には非常に大きなダメージを被ることになったし、いろんな人に迷惑をかけましたが、多くの理解と協力のもと何の不自由もなく療養生活を満喫し(ちゃんと機能回復するかわからないのに私は入院&リハビリ生活をめちゃくちゃ楽しみました)、お金も保険で賄えたし、なんとか無事に社会復帰をするまで回復しました。
そんな私の思い出ももうすっかりアップデートされ、過去の自分の姿も忘却のかなたに追いやっていたのですが、数日前のあることをきっかけに、それらの思い出がまたふたたびよみがえってきました。
あらためていまの視点で当時の自分を振り返ってみると、ほんと、信じられないようなことをしていましたね。ようやってたわー私、ね。崩壊寸前だったんですね。
さて、ここまでたどり着いたみなさま、長々とお付き合いくださりありがとうございました。お話は以上でございます。
でもせっかくなので、ここまでおつきあいくださった方に、ちょっと投げかけてみたいな。
あのですね、いまこれを読みながら「これ、私かも・・・?」と思った方はいらっしゃるでしょうか。もしいたら、これを読んでどう感じたか、ちょっと座って考えてみてください。
「こういうひと職場にいるいる!これ、その人にそのまま読ませたい!」って思った方は?
座り直して聞いてくださいね。もしかしたら、あなた自身が私の仲間なのかもしれません。
なぜって自分の中にあるものを、ひとは他人の中にもみるからです。