自分とはなにものであるかというテーマについて考える時、しばしば自分自身を知る、という言葉が使われますが、「自分を知る」ことと「自分について知る」ことは、似ているようでだいぶ違います。
現代社会においては、より多くの人が自分自身について知ることの方に興味を持っているけれども自分を知ることにはあまり関心がないように思うのです。
自分自身について、というのはつまり、自分がどんな容姿をしていて、なにを持っていて(もしくは持っていなくて)、どんな仕事をしていて、どんな家に住んでいて、なんの資格を持っていて、どんな車に乗っていて、年間いくら稼いで・・・といった自分の物理的側面についてのお話です。
どのような性格で、という話になると、今度はもう少し踏み込んで感情や思考面のお話になってきます。
このとき考慮すべきは、感情や思考はあくまでもエゴの一部であって、本来のわたしたち自身とは別のところにあるということです。
しかしそこが同一視されていると、自分の考えや信念を自分自身とぴったり同化させて「これが私である」という虚像を作り上げることになります。
思考や信念を含めて私自身であるという考え方を悪しく言うわけではないのですが、私には世の中の人間関係の多くがこの虚像を信じ込むことによって複雑なものにしている気がしてなりません。
ある人(仮にAさん)が、私のやり方に真っ向から対立する反対の意見を私に向かって言ったとします。
Aさんが受け入れないと言っているのは私の考え方であって、私自身ではありません。
しかし私が自分の意見とぴったり同化していた場合、なにが起きるかというと、自分自身を否定されている!という恐れと強い拒否反応です。
これと同じことは相手方であるAさんにも言えます。
反対しているのは相手の意見や考え方であるはずなのに、相手の意見と相手の本質を同一視することにより、相手の人格そのものまでが受け入れがたいものだと錯覚してしまいます。
そしてその錯覚がお互いの内側で同時に発生すると、関係は一気にギクシャクしたものになります。
これが家族や友人関係など愛で繋がっている場でなく、職場や学校など、ある目的のためだけに合理的に人が集まっている場で生まれた軋轢の場合、生じた亀裂はずっと長く尾を引きやすい気がします。
でもほんとは人それぞれ多様性があっていいはずです。
だってほんとに人はみんな違うんだもん。
しかしトラブルを避けようとするあまり、多くの人が自分を殺して我慢することを選んでいます。
人間関係で火花を散らすような目に見えるトラブルは避けることができているかもしれないけれど、自分自身の内側で生じ、閉じ込められた感情は、鬱積したまま内側にどんどんと溜まる一方。
だからこそ、私は自分の内側で起きている反応に意識的になることをおすすめしたいのです。
相手があなたに対して異を唱えて強く迫ってくるとき、それを真正面から個人的に取らないことです。
その人はもしかすると自分と自分の考え方を同化させているばかりでなく、あなたとあなたの考え方も同一視しているために、あなたの人格や存在そのものを否定するようなことを言ったり、そういった態度をとるかもしれません。
しかしそれはその人がそういうやり方でしか自分自身を表現する方法を知らないだけです。ですから、あなたまでそれにお付き合いする必要はありません。
あなたは静かにあなたの真ん中にいて、その様子を静かに眺めていましょう。
ちかごろすぐに怒りだす人が多いのは、それだけ多くの人が内側に抑圧された滞留物をためて生きているということだと思います。
それだけ、やりたくないことをしている人が多い、ということも言えるでしょう。
内側の滞留物はエネルギーの流れを妨げ、容易にハートの豊かなスペースを奪います。スペースとはそのまま心の余裕にもつながっています。
愛で繋がる関係性を人生に増やしていくこと。
私たちはそのことにもっともっと意識的になろうではありませんか。