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言葉がいらないのは恋愛だけじゃない?

ひとりごと

これまで「あなたはブログをチャネリングで書いているのでしょう?」と言われたことが何回かあります。

「頭で考えて書いてる文章じゃないでしょう?チャネリングで書かなきゃああいう文章にはならないと思うんだけど。」

とのことですが、うーん、私、ちゃんと考えて書いていますよ。

だってこのブログ内の誤字脱字が多さときたら! いかにもズボラな私のおおざっぱな仕事っぽいではありませんか。

ただ、過去に自分で書いたものになにかの拍子に遭遇することがあって、それを読んで自分でびっくりする、ということはあります。

えー、これ、ほんとうに私が書いたの?
すごいなあ、勉強になるなあ・・・ということは稀にあります。

でも一番多いのは、結末がどこへ着地するかわからないまま、ふらーっと書き始めること。

この文章はどうなっていくんだろう・・・と客観的にキーボードを叩いているといつのまにか全容があらわれてきて、ふっと手が止まるとブログ記事ができあがっているというようなこと。

この感覚、もしかしたら楽器をやる人ならわかってもらえるかもしれないけど、演奏していてもそういうことはよくありました。

音の流れの中に心地よく漂っていたはずなのに、突然なにもない空間にポーンと放り出されたようになって静けさにハッと気づくと、手が止まって曲が終わっている、あの感じにとてもよく似ています。

そして出来上がった文章を読み返してみて、へえ!私はこういうこと書きたかったのかー、となることはある。

もしかして、そういうふうに書いた記事をご覧になった方が「チャネリング」という表現をされているのかもしれません。違うかな。

そういえば話は全然かわるけど、通訳の仕事をしている友人と話をしていて「複数の言葉を話す人はテレパスの人が多い」という話題になったことがあります。

彼女によれば、日本語だけを話す相手との会話と、日本語以外の言語が話せる相手との会話では、疎通のしやすさが全然違うんだそうです。

相手がなにを言おうとしているかは手に取るようにわかるし、自分の言いたいこともストレートによく伝わる、だから相手が外国語を話す人かどうかは、日本語で少し会話しただけですぐわかる、ということでした。

多分、コトバ以外にほかの感覚を一緒に使っているからじゃないかなーっと思うんですが、私も同じように感じていましたから、彼女のいうことはよくわかります。

事実、彼女は私が日本語以外に英語を多少なりとも使えることに、私と知り合ってまだ日も浅いうちに気づきました。こちらも同じです。

彼女と話すとあれこれ説明せずとも話がつながるので会話のテンポが早く、私たちはありとあらゆる分野について細胞分裂するみたいに議論を重ねることができました。

ところがそれが、というか、私が、相手が共通の言語をまったく話さない外国人であっても同じように分かり合えるかというと、これはまた別の話で・・・言葉を使ったコミュニケーションの話ですごく面白いお話があるのでご披露しますね。

アジアを旅していた時に、現地で一緒になった日本人女性3人と一緒に、ローカルのレストランでお昼ご飯をすることになりました。

女性たち3人は日本語以外全くダメというので、それまでの移動も全部私が(なんなら得意げに)通訳をしていました。

そしてその店でも私がメニューを読んでオーダーを取りまとめ、店の人を呼びました。

しかしその店は市街地からだいぶ離れていて、そのせいか店員さんの口から出てくるのは現地語のみ。

英語は片言も通じず、仕方ないので私はメニューの写真を指で差しながら注文をしました。

ところが、オーダーを取りに来た若いウェイターは、注文を聞くなり私に向かって、現地語で何かを必死に訴えてくるのです。

注文の内容に対して何かを言っていることは確かなようですが、その内容は全くちんぷんかんぷん。

女性3人が不安げな表情で一斉に私を見るのですが、英語も日本語もダメとなると、私にはもうお手上げ!まったくなすすべをなくしてしまいました。

すると突然、それまで黙っていたひとり(仮にA子)が「あ!もしかしたらこう言ってるんじゃない?」と日本語で問いかけ始めました。

[chat face=”woman2″ name=”A子” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]ねえ、いま注文した量が私たち4人には多すぎるってこと?[/chat]

[chat face=”man1″ name=”ウェイター” align=”right” border=”gray” bg=”none” style=””]うんちゃらかんちゃらぺらぺらぺら(現地の言葉)[/chat]

[chat face=”woman2″ name=”A子” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]やっぱり多いんだ・・・じゃあさ、この4人だったら(テーブル全員を差しながら)、おすすめは、この中のどれ?[/chat]

[chat face=”man1″ name=”ウェイター” align=”right” border=”gray” bg=”none” style=””]うんちゃらかんちゃらぺらぺらぺら[/chat]

[chat face=”woman2″ name=”A子” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]どれ? これ? へえ、これはこれ野菜なの? お肉なの?[/chat]

[chat face=”man1″ name=”ウェイター” align=”right” border=”gray” bg=”none” style=””]うんちゃらかんちゃらぺらぺらぺら[/chat]

[chat face=”woman2″ name=”A子” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]ああ、そうか、じゃあ2つずつとって4人で分け合えばいいか。じゃあね、ふたつずつ、ツーね、ツー!(指をチョキの形にしてジェスチャー)[/chat]

[chat face=”man1″ name=”ウェイター” align=”right” border=”gray” bg=”none” style=””]うんちゃらかんちゃらぺらぺらぺら!(嬉しそう)[/chat]

[chat face=”woman2″ name=”A子” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]おっけーありがとう!教えてくれてよかった!(にこっ)[/chat]

[chat face=”man1″ name=”ウェイター” align=”right” border=”gray” bg=”none” style=””]うんちゃらかんちゃらぺらぺらぺら!(にこにこ)[/chat]

話がおわると男性は実に満足した表情を浮かべて厨房にもどっていきました。

私は間抜けヅラで口をぽかんと開けたまま、テーブル越しに交わされるその会話の一部始終を見守っていました。

なんなんだこれは・・・A子は日本語しか話してないし、ウェイターは自分の言語しか話してないのに、理由はわからないけどちゃんと会話はなりたってる!

なんなの? テレパシーで通信しあってるの??

別にそれならそれで説明はつくのです。しかし驚いたことに、私以外のほかの2人もほぼ彼らの会話を理解していました。

まーったくカヤの外にいたのはわたしただひとり・・・ぽぉっつーーーーん!

そして果たして、ほんとうにお肉のカレーが2つ、お野菜のカレーが2つ、取り分け用のボウルと一緒に私たちのテーブルに運ばれてきたのでした。

ほんとにそれはマジックみたいでした。そしてもちろんカレーは極上の美味しさ!

私はいまだにあれがなんだったか時々思い出しては不思議な気持ちになるのですが、あのとき彼らの中に流れていたのは相手を理解しようとハートで通じ合おうとする気持ちだったのでしょう、きっと。

私はなまじっか英語ができたため、相手との交流を言葉の道具としての側面だけに100%頼って成し遂げようとしました。

私にとって英語力とは挫折をいっぱい重ねて身につけたいせつな道具だったし、それを持っていることが誇りでもありました。そしてそれさえあれば世界中だいたいのところで困らないはずの、頼れるお守りでもありました。

だからそのご自慢のお道具がここではまったく使い物にならないとわかったとき、シャッターがガン!と下りたようになにもできなくなってしまったんですね。おハズカシ。

しかし人と人との繋がりの中で最も重要なのは、自分を表現しながら相手も受け入れようという循環の意識。

恋愛するのに言葉なんかいらないなんてよく言いますが、お互いに通じ合いわかり合おうという意識、人間愛をもって接すれば、こんな風に楽しく少し滑稽でもあったけど、お店のオススメメニューの注文ができちゃうんだもの。

言葉は使えればそりゃ便利なことこのうえないものだけど、それだけをすべてにしてしまったら、もっと重要でプライマリーな人間同士の交流をすることができないまま終わってしまう。

私が言葉を使ったコミュニケーションについて、大いに考えるきっかけとなったできごとでした。

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