約束もないのに地下鉄とJRとバスを乗り継いで小一時間。
ひとり、ランチのためだけに外出。
以前は日常を生き抜くための日々の緩衝剤として必要だった、こんな贅沢な1日も思えば久しぶりです。
はじめてたずねたカフェには、真ん中のテーブルに女性のグループがいて、賑やかに、はでやかに、その場にいない誰かさんの噂話に花を咲かせていました。
こぢんまりとした店内には他に空いた席がなく、彼らのすぐ隣の二人がけのテーブルにつきながら、読書でもしながらのんびり過ごそうと目論んでいた私はがっかり。
ま、しょうがない。
ところがしばらくしてふと気づけば、どっぷりと自分だけの時間を味わっている私がいました。
おしゃべりや人の出入りが気になるどころか、持ってきた本のことすら忘れていました。それはまるで静かな空間で、瞑想しながら「いまここ」を経験している私だけの時間のようでした。
そのことに気づいて、私はすっかり感動してしまいました。
ひとりで出歩くのが好きなくせにひとりの飲食が苦手だったのは、逃げ場のない空間で、誰かの都合で「私の時間」を邪魔されるのが怖かったからです。隣のテーブルのとりとめのないおしゃべりや愚痴や噂話を聞かされるのがとても苦痛だったからです。
いろんな人の思いやネガティブな感情や「ぐるぐる」や「もやもや」が私の中にまで入ってきて、感情をぐちゃぐちゃに乱されるから。
だからいつも、時間をゆったり楽しむことの上手な「おひとりさま」が好みそうなお店を探していました。
いずれにせよその場にいるだけで漂ってくるものはキャッチしてしまうんだけど、同調しあいながら増幅し、物理的に空気を振動させるおしゃべりが聞こえてこないだけマシだと思っていました。
でもこうしてここで、外で起きていることの影響を一切受けずに内側の平穏を保っている自分を発見して、ああ私はもう大丈夫だ、と強く思いました。
もうどこにいたって、なにがあったって、いつだって私はそのままの私でいられる。
ただ目の前のお料理をいただくということだけに集中してそれを楽しみ、窓からの景色やトンビや雲の動きを眺め、なにをするともなく名前のない時間は過ぎていきました。
そろそろ帰ろうかな(またいっぱいバスと電車と地下鉄に乗るんだった)、と伝票を手に周囲に意識を向けてみると、あれほど店内に響き渡っていた賑やかな噂話はいつのまにか静まっていました。
気づかないうちに、私の現実の中で内が外に反映されていたんですね。でも同時に、そんなことはもうどうでもいいな、とも思いました。
現実を自分の思う通りに変えたいと意図しなくたって、私のあり方が今ここにあってこの瞬間を生きていれば、外の世界がどうあっても私自身はなんの影響も受けないんだってことがいまははっきりとわかるからです。
https://pranaromana.jp/2018/05/06/beingnow/