自分自身の
本当の姿を思い出す旅へ
ひとりごと

心から発した言葉でなければ届かないということ

心から発した言葉でなければ届かないということ。

そして相手がどう理解するかは相手の自由であるということ。

言葉を選んで理解しやすいようにといくら工夫を凝らしたとしても、それを相手がどう受け取るかは、お相手の自由というお話です。

相手のためと思って言葉を選び、わかりやすい例を挙げ、時には聞く人にあわせて主題を変えたり、ということは工夫のひとつとして誰でもしていることだと思います。

ところがそれをすることで、ほんとうに伝えたかった真実が微妙に歪められる可能性があるとしたらどうでしょうか。

対話の相手によかれと思って話す言葉が、不可解にねじれたまま相手に届くとしたら。

あるティーチャーがこんなことを言っていました。

たとえ同じ情報をチャネルしたとしても、受取手によって受け取る情報もそれを表現する言葉も全て違う。

つまりどのように受け取りどう理解するかは、受取手次第ということですね。

話はそれますが、以前、おつきあいのあったカルチャースクールのマネージャーが、私の経歴を面白がってくださって「プレゼンテーションのノウハウ」についての講座をやりませんか?と声をかけてくださったことがあります。

面白い企画だとそのときは私も思い、一旦はノリノリでお返事を差し上げたのですが、最終的に担当者と目指す方向に若干の隔たりがあることに気づき、実現には至りませんでした。

誰にでもわかる! とか、これさえ抑えれば楽勝! といったオールマイティなノウハウや、画一的なフォーマットに収める方法論は・・・

やれといわれればできるんですけど(サラリーマン時代の私ならホイホイ♪こなしたでしょうけど)でももう、そういうやり方はしたくないな、と感じたためです。

しかし白状すると、私も自分のほんとうに言いたいことをふんわりと包んで別の言葉におきかえながら、言葉を微妙に選んでいるときがあります。

そういうときはつまり、やはり伝わらないんですね。

お相手が深くうなづいている場合もありますが、おそらく私がいちばん伝えたかった部分はぼやけたままだと、それは感触としてわかります。

稀に霊的、エネルギー的に敏感に受信してくださる奇特な方があってもそんなのはほんとうに稀なことで、実際に空気を震わせて放たれる言葉のエネルギーの方がはるかに大きいので、いらない努力の賜物が不本意なまま相手に届いてしまう、という始末におちいります。

心から感じるままに発信するってほんとうに、非常に、勇気のいることだし怖いことだけど、これって結局のところ、全ての人にきちんと伝えなくては、誤解なく理解してもらわなくては、と思うから怖いんですね。

それは同時に「私を受けいれてほしい」という、自分の奥にある幼く傷つきやすく柔らかな部分を守りたいという小さな心のあらわれでもあります。

しかし誤解を恐れるあまりに歪んだ真実を伝えるくらいなら、もういっそ口を閉ざしている方がマシかもしれません。

それでもなお、発することを選ぶのであれば。

もはや心から表現することなど恐れている場合ではない、と、はい、今日はもう、私自身に向けて。

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