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傷ついたあなたへ

メッセージ

今日のテーマははじめメルマガで書く予定でしたが、もっと多くの人に届けたいのでブログで書くことにしました。

ちょっと言葉がきつくてドキッとするかもしれません。でも決して皆さんをいやな気持ちにさせたくて書く記事ではないことをご了承ください。

許せない人がいるあなたへ

私も同じような感情を抱えていたことがあります。

思い出すのもいやなこと、いやなひと。

もうきっぱりすっかり忘れて晴れ晴れとしたいのに、忘れたと思った頃にまたふらりと心に影を落として私をどんよりさせるのです。

なぜ許せないのだろう、と考えました。

私のやわらかな感じやすい心や、時間や、だいじな尊厳までを傷つけておきながら、当の本人はそんなことなど気にもとめずにのうのうと暮らしている。

「人の気も知らないで。返してよ、私の心や時間や尊厳を返して」

傷つけられたから、奪われたから、搾取されたから、それに見合ったものを返してもらいたいんだと気づきました。

じゃあ、なにをしてもらったら「返してもらったこと」になるのでしょう。

謝罪の言葉でしょうか。

でもそれはもしかしたら、ごめんなさいの一言では償いきれないほどの「ひどいこと」かもしれません。

私をどれほど傷つけたのか理解していない人の言葉だけの「ごめんなさい」をもらったところで、果たして溜飲は下りるでしょうか。

あ、ここでヒントがまた出ましたね。

「相手がどんなに私を傷つけたのか理解していない」と私は思っているのです。なのに「相手はなんとも思っていない」ように私の目には見えているのです。

これが「わかってほしい」の正体ではないでしょうか。

そして多くの場合、その「奪う相手」や「傷つける相手」は自分にとっていちばん近い人、身内だったりします。

本来であればいちばん愛し、守り、与えてくれるはずの人に傷つけられ奪われる苦しみ、悲しみは、言葉では表せないほどかもしれません。

私はこれほどの辛さを味わったのだ、あなたが私から奪ったものがどれほどのものか思い知るべきだ、この痛みをあなたも味わったらいい、そういう思いがこの「わかってほしい」なのだと思います。

しかし相手からはいつまで待ってもそれが帰ってこない。

もうそんな相手に何を言っても分かるわけなどない、ということも知っているし、やがてすっかり疲れ切ってしまって「もうたくさん。この件について考えるのはもうおしまいにしよう」と頭で割り切ってみるのですね。

特に私のまわりの傷ついた人はとても優しくて、そんな風になってしまう自分を責め続け、押し殺した感情をさらに押さえつけています。

でもいくら頭で「もう許そう」と思っていても、傷は癒えていないので、小さなきっかけひとつでいつでもまた新鮮な血を流し始めます。

もう忘れたい、このことから離れたいのに、いつまでもまとわりついてくるこの感情。

一体どうしたらいいのでしょう?

こんなとき、もしかしたら方法はひとつではないかもしれません。

でも私だったら、これを相手から切り離して自分ひとりの問題として考えます。

被害者と加害者、奪われた私と奪ったあの人、という図式は壊して、私ひとりがとっとと楽になる方法を考えるのです。

つまり相手に返してもらうことに執着することをやめて、自分から自分に与えるのです。

なにを?

欲しかったものを、です。

わかってもらいたかった、たいせつにされたかった、愛されたかった、を満たすもの。

それが、その部分を自分で認めてその痛みや悲しみもろとも抱きしめること。ただひたすらに、です。

貯めた涙が枯れるまで(ガマンをしてきた人は、涙が溜まっていることすら気づいていません)これを気のすむまでやり尽くすんです。

私はこんな歳になって一度だけ、口から内臓がぜんぶ溢れ出してしまうんじゃないかと思うほどの勢いで、声を上げて、文字通り吐くほどに泣いたことがあります。

そこまでになってやっと自分がいかに自分を押し殺して生きてきたのか、そうなった自分を認めてはじめて知ったのでした。

そりゃ生きてれば山も谷もありますから、なにもないつもりはありませんでした。でもどちらかといえばのんべんだらりと呑気に生きてきたつもりでいた分、それはとても衝撃的なできごとでした。

ですから自分では気づかないままガマンを重ねている人を見ると、つい手を差し伸べたくなります。

傷があると言うことを知っている人は、ですから、それだけ早く「いち抜けた!」ができるということです。

実を言うと。

インナーチャイルドという言葉にはずっと抵抗がありました。

スピっぽいというか自己啓発ぽいというか、なんとなくこの単語だけが一人歩きしている感覚もあって(なぜそう思うのでしょうね)いまでもほかの呼び名があったら、と思ったりもしています。

しかし自分の中の傷つき行き場をなくした感情を抱きしめるのは、やはり「幼い子どもを抱きしめる」という表現がしっくりくるのも事実です。

ですからもしあなたも同じように「インナーチャイルド」という言葉に抵抗を感じるのなら、ご自分の中のその存在に、ぜひご自身で名前をつけて呼んであげるといいと思います。

そしてめいいっぱい愛を注いであげてください。

それをするのに遅すぎるということはありません。

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