終わりの見えない不安の中にいると、どうしても心が些細なことに揺れ動きやすくなります。
つい先日、親しくしている友人が「癌で闘病中」と報告してくれました。
こんな騒動の中ですし、きっと本人にしかわからないことはやまほどあるのだと思います。でも事実を受け入れた彼女は、落ち着いて晴れやかでした。
こういうとき当事者は逃げることができませんからハラをくくって受け入れるしかないのです。
むしろ不安に駆られて騒ぎ出すのは周りにいる人間、しかも近い家族だったりします。
たいせつな家族が命に関わる病気にかかったとなれば不安で押し潰れそうになるのはよくわかるのですが、その不安の矛先が逆に当事者である友人をも傷つけることになっているのを見て、とても切ない気持ちになりました。
でもなにより本人が言うように、今このタイミングで病気が見つかったと言うことは、彼女にも彼女の家族にも必要な経験がもたらされているということなのでしょう、きっと。
彼女と彼女を取り巻くたいせつな人たちの幸せを祈ります。
きっと頭で整理はついてはいても、不安というものは目に見えない埃のように、小さく小さく溜まっていくものなのかもしれません。
アメリカや欧州の外出が厳しく規制されているような国々では、この先が見えずに不安を抱えた家族同士が外出もできず1日中顔をあわせていることもあって、家庭内がギスギスしはじめていることが表面化してきているようです。
弱さや苛立ちを隠さずぶつけあえる関係性だからこそおこる家庭内のギスギスは、どちらからが平常心ならフォローしあうことができても、互いが同じ土俵に立っていると泥仕合になりかねません。
自分の中の感情が、不安、苛立ち、焦りからくるものだと感じたら、ちょっと身体を動かしてみませんか。
感情というものは、肉体の付属物ですから本来の私たちの本質ではありません。
自分の本来の目でいま起きていることを観察し、行動を決めていきましょうね。